由买买提看人间百态

boards

本页内容为未名空间相应帖子的节选和存档,一周内的贴子最多显示50字,超过一周显示500字 访问原贴
Military版 - 中米的冲突10年内就会发生
相关主题
石原莞爾:《世界最終戰》石原慎太郎和石原莞尔有没有什么关系?
指出黄人和白人之间的终极战争战争是推动历史的真正动力
石原莞尔的《世界最终战争论》观点:当年上帝曾经给小日本一次绝佳机会 小日本不珍惜
其实石原莞尔的最初设想是只占东北,然后和中华民国修好。石原莞尔70年前就预见了东亚和米国的冲突
【转载】石原莞尔和他的小JJ, 哈哈石原莞尔的世界最终战预见了这一天
石原莞尔鼓励下本版小将 - 日本是如何走向灭亡
国内历史学家越来越前卫:石原莞尔是非常同情中国的官乃贪官,民乃刁民-石原莞尔评中国
石原莞尔上个世纪就观察中国石原莞尔评价1920年的中国
相关话题的讨论汇总
话题: 欧州话题: 東亜话题: 日本话题: 主義话题: 世界
进入Military版参与讨论
1 (共1页)
k*****r
发帖数: 21039
1
纵观历史,昂格鲁-凯克集团是不会坐视欧亚大陆上强国和平崛起的,不管是第二,第
三帝国的德国,还是君主立宪的日本,还是邪恶独裁的苏联。
100年前的第一次世界大战,起源就是德国工业和技术的崛起,在战列舰建造竞赛中逐
渐把英国抛开了。 100年后的中米对抗形势,和100年前的德英对抗非常类似。 一边是
欣欣向荣的新兴国家,一边是靠对殖民地插管吸血,不劳而获的老朽帝国。 这种矛盾
是不可调和的。 米国在染上米犹这个癌症,绝症后,很难不保证丫不狗急跳墙,挺而
走险。
其实石原早就预见了这一天,世界最终战,东亚民族和昂格鲁-凯克集团的斗争,是决
定人类走向解放,还是走向千年黑暗的关键。
石原莞爾 <最終戦争論>
.....
西洋歴史を大観すれば、古代は国家の対立からロ―マが統一したのであります。それ
から中世はそれをキリスト教の坊さんが引受けて、彼らが威力を失いますと、次には
新しい国家が発生してまいりました。国家主義がだんだん発展して来て、フランス革
命のときは一時、世界主義が唱導されました。ゲーテやナポレオンは本当に世界主義
を理想としたのでありますが、結局それは目的を達しないで、国家主義の全盛時代に
なって第一次欧州戦争を迎えました。
欧州戦争の深刻な破壊の体験によって、再び世界主義である国際連盟の実験が行な
われることとなりました。けれども急に理想までは達しかねて、国際連盟は空文にな
ったのです。しかし世界は欧州戦争前の国家主義全盛の時代までは逆転しないで、国
家連合の時代になったと私どもは言っているのであります。大体、世界は四つになる
ようであります。
第一はソビエト連邦。これは社会主義国家の連合体であります。マルクス主義に対
する世界の魅力は失われましたが、二十年来の経験に基づき、特に第二次欧州戦争に
仱浮⒍捞丐位钴Sをなしつつあるソ連の実力は絶対に軽視できません。第二は米州で
あります。合泄蛑行膜趣贰⒛媳饱ⅴ幞辚蛞惶澶摔筏瑜Δ趣筏膜膜ⅳ辘蓼埂V心厦
驻蚊褡宓拈v係もあり、合泄瑜辘猡啶筏恁瑭`ロッパ方面と経済上の関係が濃厚な南
米の諸国に於ては、合泄蛑行膜趣工朊字荬芜B合に反対する邉婴舷嗟睆姢い韦扦工
堡欷嗓狻ⅳ筏反髣荬献拧─趣筏泼字荬芜B合に進んでおります。
次にヨーロッパです。第一次欧州戦争の結果たるベルサイユ体制は、反動的で非常
に無理があったものですから遂に今日の破局を来たしました。今度の戦争が起ると、
「われわれは戦争に勝ったならば断じてベルサイユの体制に還すのではない。ナチは
打倒しなければならぬ。ああいう独裁者は人類の平和のために打倒して、われわれの
方針である自由主義の信条に基づく新しいヨーロッパの連合体制を採ろう」というの
が、英国の知識階級の世論だと言われております。ドイツ側はどうでありましたか。
たしか去年の秋のことでした。トルコ駐在のドイツ大使フォン・パーペンがド
イツに帰る途中、イスタンブールで新聞記者にドイツの戦争目的如何という質問を受
けた。ナチでないのでありますから、比較的慎重な態度を採らなけれはならぬパーペ
ンが、言下に「ドイツが勝ったならばヨーロッパ連盟を作るのだ」と申しました。ナ
チスの世界観である「呙鼌f同体」を指導原理とするヨーロッパ連盟を作るのが、ヒ
ットラーの理想であるだろうと思います。フランスの屈伏後に於けるドイツの態度か
ら見ても、このことは間違いないと信ぜられます。第一次欧州戦争が終りましてから
、オーストリアのクーデンホーフが汎ヨーロッパということを唱導しまして、フラン
スのブリアン、ドイツのストレーゼマンという政治家も、その実現に熱意を見せたの
でありますが、とうとうそこまで行かないでウヤムヤになったのです。今度の大破局
に当ってヨーロッパの連合体を作るということが、再びヨーロッパ人の真剣な気持に
なりつつあるものと思われます。
最後に東亜であります。目下、日本と支那は東洋では未だかつてなかった大戦争を
継続しております。しかしこの戦争も結局は日支両国が本当に提携するための悩みな
のです。日本はおぼろ気ながら近衛声明以来それを認識しております。近衛声明以来
ではありません。開戦当初から聖戦と唱えられたのがそれであります。如何なる犠牲
を払っても、われわれは代償を求めるのではない、本当に日支の新しい提携の方針を
確立すればそれでよろしいということは、今や日本の信念になりつつあります。明治
維新後、民族国家を完成しようとして、他民族を軽視する傾向を強めたことは否定で
きません。台湾、朝鮮、満州、支那に於て遺憾ながら他民族の心をつかみ得なかった
最大原因は、ここにあることを深く反省するのが事変処理、昭和維新、東亜連盟結成
の基礎条件であります。中華民国でも三民主義の民族主義は孫文時代のままではなく
、今度の事変を契機として新しい世界の趨勢に即応したものに進展することを信ずる
ものであります。今日の世界的形勢に於て、科学文明に立ち遅れた東亜の諸民族が西
洋人と太刀打ちしようとするならば、われわれは精神力、道義力によって提携するの
が最も重要な点でありますから、聡明な日本民族も漢民族も、もう間もなく大勢を達
観して、心から諒解するようになるだろうと思います。
もう一つ大英帝国というブロックが現実にはあるのであります。カナダ、アフリカ
、インド、オーストラリア、南洋の広い地域を支配しています。しかし私は、これは
問題にならないと見ております。あれは十九世紀で終ったのです。強大な実力を有す
る国家がヨーロッパにしかない時代に、英国は制海権を確保してヨーロッパから植民
地に行く道を独占し、更にヨーロッパの強国同士を絶えず喧嘩させて、自分の安全性
を高めて世界を支配していたのです。
ところが十九世紀の末から既に大英帝国の鼎(かなえ)の軽重は問われつつあった
。殊にドイツが大海軍の建設をはじめただけでなく、三B政策によって陸路ベルリン
からバグダッド、エジプトの方に進んで行こうとするに至って、英国は制海権のみに
よってはドイツを屈伏させることが怪しくなって来たのです。それが第一次欧州大戦
の根本原因であります。幸いにドイツをやっつけました。数百年前、世界政策に仱瓿
訾筏埔岳础ⅴ攻讠ぅ蟆ⅴ荪毳去搿ⅴ楗螗坤蚱皮辍⒋韦い钎圣荪欹螭蛑行膜趣工
毳榨楗螗工舜颏量摔盲啤⒁皇兰oの間、世界の覇者となっていた英国は、最後にドイ
ツ民族との決勝戦を迎えたのであります。
英国は第一次欧州戦争の勝利により、欧州諸国家の争覇戦に於ける全勝の名誉を獲
得しました。しかしこの名誉を得たときが実は、おしまいであったのです。まあ、や
れやれと思ったときに東洋の一角では日本が相当なものになってしまった。それから
合泄麓箨懁送垽盲皮い搿¥猡袢栅嫌⒌酃晤I土は日本やアメリカの自己抑
制のおかげで保持しているのです。英国自身の実力によって保持しているのではあり
ません。
カナダをはじめ南北アメリカの英国の領土は、合泄瘟Δ藢潳筏平~対に保持でき
ません。シンガポール以東、オーストラリアや南洋は、英国の力をもってしては、日
本の威力に対して断じて保持できない。インドでもソビエトか日本の力が英国の力以
上であります。本当に英国の、いわゆる無敵海軍をもって確保できるのは、せいぜい
アフリカの植民地だけです。大英帝国はもうベルギー、オランダなみに歴史的惰性と
外交的駆引によって、自分の領土を保持しているところの老獪極まる古狸でございま
す。二十世紀の前半期は英帝国の崩壊史だろうと私どもも言っておったのですが、今
次欧州大戦では、驚異的に復興したドイツのために、その本幹に電撃を与えられ、大
英帝国もいよいよ歴史的存在となりつつあります。
この国家連合の時代には、英帝国のような分散した状態ではいけないので、どうし
ても地域的に相接触したものが一つの連合体になることが、世界歴史の呙坤瓤激à
蓼埂¥饯筏扑饯系谝淮闻分荽髴橐葬幛喂疫B合の時代は、この次の最終戦争のため
の準決勝戦時代だと観察しているのであります。先に話しました四つの集団が第二次
欧州大戦以後は恐らく日、独、伊即ち東亜と欧州の連合と米州との対立となり、ソ連
は巧みに両者の間に立ちつつも、大体は米州に多く傾くように判断されますが、われ
われの常識から見れば結局、二つの代表的勢力となるものと考えられるのであります
。どれが準決勝で優勝戦に残るかと言えば、私の想像では東亜と米州だろうと思いま
す。
人類の歴史を、学問的ではありませんが、しろうと考えで考えて見ると、アジアの
西部地方に起った人類の文明が東西両方に分かれて進み、数千年後に太平洋という世
界最大の海を境にして今、顔を合わせたのです。この二つが最後の決勝戦をやる呙
摔ⅳ毪韦扦悉胜い扦筏绀Δ\娛碌膜摔庾瞍鉀Q勝戦争の困難なのは太平洋を挟んだ
両集団であります。軍事的見地から言っても、恐らくこの二つの集団が準決勝に残る
のではないかと私は考えます。
そういう見当で想像して見ますと、ソ連は非常に勉強して、自由主義から統制主義
に飛躍する時代に、率先して幾多の犠牲を払い幾百万の血を流して、今でも国民に驚
くべき大犠牲を強制しつつ、スターリンは全力を尽しておりますけれども、どうもこ
れは瀬戸物のようではないか。堅いけれども落とすと割れそうだ。スターリンに、も
しものことがあるならば、内部から崩壊してしまうのではなかろうか。非常にお気の
毒ではありますけれども。
それからヨーロッパの組はドイツ、イギリス、それにフランスなど、みな相当なも
のです。とにかく偉い民族の集まりです。しかし偉くても場所が悪い。確かに偉いけ
れどもそれが隣り合わせている。いくら呙鼌f同体を作ろう、自由主義連合体を作ろ
うと言ったところで、考えはよろしいが、どうも喧嘩はヨーロッパが本家本元であり
ます。その本能が何と言っても承知しない、なぐり合いを始める。因業な話で共倒れ
になるのじゃないか。ヒットラー統率の下に有史以来未曽有の大活躍をしている友邦
ドイツに対しては、栅耸Ю瘠恃预し饯人激い蓼工⒑韦趣胜长韦瑜Δ丝激à椁欷蓼
埂%瑭`ロッパ諸民族は特に反省することが肝要と思います。そうなって来ると、ど
うも、ぐうたらのような東亜のわれわれの組と、それから成金のようでキザだけれど
も若々しい米州、この二つが大体、決勝に残るのではないか。この両者が太平洋を挟
んだ人類の最後の大決戦、極端な大戦争をやります。その戦争は長くは続きません。
至短期間でバタバタと片が付く。そうして天皇が世界の天皇で在らせらるべきものか
、アメリカの大統領が世界を統制すべきものかという人類の最も重大な呙瑳Q定す
るであろうと思うのであります。即ち東洋の王道と西洋の覇道の、いずれが世界統一
の指導原理たるべきかが決定するのであります。
悠久の昔から東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、
次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰であります。今日、特に日
本人に注意して頂きたいのは、日本の国力が増進するにつれ、国民は特に謙譲の徳を
守り、最大の犠牲を甘受して、東亜諸民族が心から天皇の御位置を信仰するに至るこ
とを妨げぬよう心掛けねばならぬことであります。天皇が東亜諸民族から盟主と仰が
れる日こそ、即ち東亜連盟が真に完成した日であります。しかし八紘一宇の御精神を
拝すれば、天皇が東亜連盟の盟主、世界の天皇と仰がれるに至っても日本国は盟主で
はありません。
しからば最終戦争はいつ来るか。これも、まあ占いのようなもので科学的だとは申
しませんが、全くの空想でもありません。再三申しました通り、西洋の歴史を見ます
と、戦争術の大きな変転の時期が、同時に一般の文化史の重大な変化の時期でありま
す。この見地に立って年数を考えますと、中世は約一千年くらい、それに続いてルネ
ッサンスからフランス革命までは、まあ三百年乃至四百年。これも見方によって色々
の説もありましょうが、大体こういう見当になります。フランス革命から第一次欧州
戦争までは明確に百二十五年であります。千年、三百年、百二十五年から推して、第
一次欧州戦争の初めから次の最終戦争の時期までどのくらいと考えるべきであるか。
千年、三百年、百二十五年の割合から言うと今度はどのくらいの見当だろうか。多く
の人に聞いて見ると大体の結論は五十年内外だろうということになったのであります
。これは余り短いから、なるべく長くしたい気分になり、最初は七十年とか言いまし
たけれども結局、極く長く見て五十年内だろうと判断せざるを得なくなったのであり
ます。
ところが第一次欧州戦争勃発の一九一四年から二十数年経過しております。今日か
ら二十数年、まあ三十年内外で次の決戦戦争、即ち最終戦争の時期に入るだろう、と
いうことになります。余りに短いようでありますが、考えてご覧なさい。飛行機が発
明されて三十何年、本当の飛行機らしくなってから二十年内外、しかも飛躍的進歩は
、ここ数年であります。文明の急激な進歩は全く未曽有の勢いであり、今日までの常
識で将来を推しはかるべきでないことを深く考えなければなりません。
今年はアメリカの旅客機が亜成層圏を飛ぶというのであります。成層圏の征服も間
もなく実現することと信じます。科学の進歩から、どんな恐ろしい新兵器が出ないと
も言えません。この見地から、この三十年は最大の緊張をもって挙国一致、いな東亜
数億の人々が一団となって最大の能力を発揮しなければなりません。
この最終戦争の期間はどのくらい続くだろうか。これはまた更に空想が大きくなる
のでありますが、例えば東亜と米州とで決戦をやると仮定すれば、始まったら極めて
短期間で片付きます。しかし準決勝で両集団が残ったのでありますが、他にまだ沢山
の相当な国々があるのですから、本当に余震が鎮静して戦争がなくなり人類の前史が
終るまで、即ち最終戦争の時代は二十年見当であろう。言い換えれば今から三十年内
外で人類の最後の決勝戦の時期に入り、五十年以内に世界が一つになるだろう。こう
いうふうに私は算盤を弾いた次第であります。
t*****g
发帖数: 6101
2
中国工业产值已经是第一了,米帝打要下很大决心,因为无论元首国,太郎国还是毛子
国,工业产值,从来没有超越米国。何况米帝搞垮苏修是和演,很难相信他们不用经过
检验的战术而是用热战来解决。

【在 k*****r 的大作中提到】
: 纵观历史,昂格鲁-凯克集团是不会坐视欧亚大陆上强国和平崛起的,不管是第二,第
: 三帝国的德国,还是君主立宪的日本,还是邪恶独裁的苏联。
: 100年前的第一次世界大战,起源就是德国工业和技术的崛起,在战列舰建造竞赛中逐
: 渐把英国抛开了。 100年后的中米对抗形势,和100年前的德英对抗非常类似。 一边是
: 欣欣向荣的新兴国家,一边是靠对殖民地插管吸血,不劳而获的老朽帝国。 这种矛盾
: 是不可调和的。 米国在染上米犹这个癌症,绝症后,很难不保证丫不狗急跳墙,挺而
: 走险。
: 其实石原早就预见了这一天,世界最终战,东亚民族和昂格鲁-凯克集团的斗争,是决
: 定人类走向解放,还是走向千年黑暗的关键。
: 石原莞爾 <最終戦争論>

k*****r
发帖数: 21039
3
但我朝现在政治,宣传很弱,洋奴,犬儒,废物,外F居庙堂之高。

【在 t*****g 的大作中提到】
: 中国工业产值已经是第一了,米帝打要下很大决心,因为无论元首国,太郎国还是毛子
: 国,工业产值,从来没有超越米国。何况米帝搞垮苏修是和演,很难相信他们不用经过
: 检验的战术而是用热战来解决。

z*******3
发帖数: 13709
4
卡桑卡桑
t*****g
发帖数: 6101
5
所以和演成本比苏修更小。

【在 k*****r 的大作中提到】
: 但我朝现在政治,宣传很弱,洋奴,犬儒,废物,外F居庙堂之高。
t*****g
发帖数: 6101
6
话说石原莞尔作为日本间谍,化妆到上海(还是武汉?)去码头打工刺探中国情报,却
遭到国府警察(公务员编制的城管)的盘剥,把血汗钱敲诈走一大半,本来在文化上极
为亲近中国的石原,当时就决定了支持侵华计划。 常校长们不作死也不会死。

【在 k*****r 的大作中提到】
: 纵观历史,昂格鲁-凯克集团是不会坐视欧亚大陆上强国和平崛起的,不管是第二,第
: 三帝国的德国,还是君主立宪的日本,还是邪恶独裁的苏联。
: 100年前的第一次世界大战,起源就是德国工业和技术的崛起,在战列舰建造竞赛中逐
: 渐把英国抛开了。 100年后的中米对抗形势,和100年前的德英对抗非常类似。 一边是
: 欣欣向荣的新兴国家,一边是靠对殖民地插管吸血,不劳而获的老朽帝国。 这种矛盾
: 是不可调和的。 米国在染上米犹这个癌症,绝症后,很难不保证丫不狗急跳墙,挺而
: 走险。
: 其实石原早就预见了这一天,世界最终战,东亚民族和昂格鲁-凯克集团的斗争,是决
: 定人类走向解放,还是走向千年黑暗的关键。
: 石原莞爾 <最終戦争論>

t*******d
发帖数: 1845
7
我擦,原来倭寇侵华是被常公逼的

【在 t*****g 的大作中提到】
: 话说石原莞尔作为日本间谍,化妆到上海(还是武汉?)去码头打工刺探中国情报,却
: 遭到国府警察(公务员编制的城管)的盘剥,把血汗钱敲诈走一大半,本来在文化上极
: 为亲近中国的石原,当时就决定了支持侵华计划。 常校长们不作死也不会死。

t*****g
发帖数: 6101
8
倭寇本来没胆,看到常公的肏性,终于放了心,法西斯主义的形成和反法西斯国家的脆
弱是不可分的。

【在 t*******d 的大作中提到】
: 我擦,原来倭寇侵华是被常公逼的
k*****r
发帖数: 21039
9
特别是在矮贼30年倒贴嫖资妓院经济和投降买办先富思想的熏陶下。

【在 t*****g 的大作中提到】
: 所以和演成本比苏修更小。
O****X
发帖数: 24292
10
都太弱了,终极之站是阿三——穆斯林

【在 k*****r 的大作中提到】
: 纵观历史,昂格鲁-凯克集团是不会坐视欧亚大陆上强国和平崛起的,不管是第二,第
: 三帝国的德国,还是君主立宪的日本,还是邪恶独裁的苏联。
: 100年前的第一次世界大战,起源就是德国工业和技术的崛起,在战列舰建造竞赛中逐
: 渐把英国抛开了。 100年后的中米对抗形势,和100年前的德英对抗非常类似。 一边是
: 欣欣向荣的新兴国家,一边是靠对殖民地插管吸血,不劳而获的老朽帝国。 这种矛盾
: 是不可调和的。 米国在染上米犹这个癌症,绝症后,很难不保证丫不狗急跳墙,挺而
: 走险。
: 其实石原早就预见了这一天,世界最终战,东亚民族和昂格鲁-凯克集团的斗争,是决
: 定人类走向解放,还是走向千年黑暗的关键。
: 石原莞爾 <最終戦争論>

t*****g
发帖数: 6101
11
蒋粉必看-石原莞尔与鬼子侵华战略 (转帖)
2010/6/17 23:21:05 | 楼主:云的旗帜 7
石原莞尔(1889年-1949年8月15日),生于日本山形县鹤冈市,日本帝国时代的陆军
中将,日军侵略战略的规划者、理论家。昭和三大参谋之首!
思想是行动的指导。日本侵略中国绝非如其所言是某些战争狂人的个体行为,而是有着
深刻的思想渊源和精神支持的,这就是早在明治维新之前就已经开始出现、直到第二次
世界大战期间还在不断地生发和完善的日本侵略中国的思想理论。然而,使人遗憾的是
,中国人在研究抗日战争问题时,精力主要集中在日本侵略中国的“是什么”、“怎么
样”,和中国是如何抵抗的,很少涉及更少深入“为什么”。这不能不说是我国历史研
究的一大缺憾。
石原莞尔(Ishihara Kanji,1889-1949),出生于日本山形县一个武士家庭。陆军中
将。1918年陆军大学毕业,被认为是“陆大创建以来从未有过的优秀人才”,(1) 1921
年留校任教,1922-1924年到德国学习军事学,回国后继续担任陆军大学教官。1928年
10月担任关东军参谋,是策划九·一八事变的元凶。1935年任日本参谋本部作战课长,
次年策划、参加了意图加快侵华步伐的二·二六事件。1941年编入预备役,任立命馆大
学教授,继续在民间推动“东亚联盟”运动,并任该会顾问。著有《世界最终战争论》
、《国防政治论》。与其他众多的日本侵华骨干不同,石原莞尔不仅直接参加了一系列
侵华事件的谋划与实施,还潜心制造了一套侵略理论。更为突出的是,石原莞尔作为策
划九·一八事变的元凶和战争罪行累累的战犯,却没有像板垣征四郎(Itagaki
Seishiro)、土肥原贤二(Doihara Kenji)等罪大恶极的侵华分子那样受到应有的惩
处。在战后远东国际军事法庭的审判过程中,他因为已经退休多年,未被列入战犯名单
。但是当传唤其出庭作证时,石原莞尔竟然狂妄地自称“我是一个十足的战争罪犯”,
装疯卖傻,并攻击东京审判“将成为后世笑柄”。
石原莞尔生平:1902年进入仙台陆军地方幼年学校第六期学习,以第三名的身份毕业
1907年毕业后,石原进入步兵第32联队当士官候补生,并于当年12月进入日本陆军士官
学校学习,并以第21期步兵课第6名成绩毕业。(其实石原是第三名,但因为与老师的
关系恶劣,被评定为第六,)
陆士毕业后重回第32联队,但与联队长关系不佳,在成立第63联队时,被推荐去63联队
任职
1915年考入日本陆军大学,1918年以第2名的成绩从陆大第30期毕业(实际上是第1名,
由于在学习时过于狂妄自大,与老师关系不佳,故被剥夺了取得第一的资格)。在此期
间,结识了板垣征四郎,并于之成为一辈子的朋友,搭档。
1918年陆大毕业后,在第63联队任职一段后即去了总部,虽是军刀组(陆大当期前6名
)成员,由于性格怪异受排挤,被安排到训练总监部任职。
1920年4月就被派到武汉陆军中支派遣队司令部,并化妆成苦力,哑巴到各地进行“考
察活动”,以勘测地形及刺探情报,并得出“中国的政府对民众实在太苛刻,当这样一
个政府受到外来攻击时,很难得到民众的同情和帮助”的结论,这个结论对后来的9.18
有相当大的影响。
1921年7月被调往陆大任教官(陆军大尉)。
1922年7月赴德国留学,在此期间爱上了摄影,购买了一整套设备。军刀和照相机是石
原一生的爱好,后来现存很多918事件历史照片都是石原亲自拍摄的。
1924年8月晋升为陆军少佐,10月回国,重回陆大任教。   1928年8月晋升陆军中佐
,2个月后,在皇姑屯事件主谋河本大作的推荐下,出任关东军作战参谋
石原莞尔系统地接受了日本传统的皇国史观和军国主义思想的教育,具有浓厚的对外侵
略扩张意识。在陆军大学进行有关战争史的教学与研究的时候,特别是在任关东军参谋
期间通过对占领中国的实际认识,结合对日莲宗(即日莲教,日本佛教十三个宗派之一
,又称日莲法华宗,开创者是日莲。——引者注)。宗教观念的参悟,提出了“世界最
终之战争”这一狂妄史观,并由此出发,构造了日本对华问题的基本国策,第一谋略就
是迅速占领中国东北。
首先,大肆散布东北不是中国领土的谬论,积极鼓吹把东北从中国分离出去,并入日本
版图  1. 为了解除国内的不安要素,需要对外进出。   2. 积极解决满蒙问题
不仅为了日本的利益,也是为了大多数支那国民的利益,为了正义日本必须果断行动。
3. 从历史的观点来看,与其说满蒙属于汉民族不如说应该属于日本民族。
石原莞尔的这三点非常简单明了,直截了当。石原的第一点说的是实话,为了从当时的
经济危机中解救出来,日本军阀和军阀背后的财阀选择的就是战争,也只有战争可以选
择;石原的第二点则是所有侵略者的陈词滥调,所有的侵略者都是为了被侵略者的“利
益”而“迫不得已”地发动侵略战争的;值得注意的是和详细解释了的前两点根本不同
的第三点。这个“历史的观点”是怎么一回事,没有人知道,除了这一句话之外,石原
没有做任何说明。 。石原莞尔扬言东北“与中国本土不同”,“满洲大部分地区并非
汉族的土地,且明治以后很多日本人来到满洲。从对付苏联保卫满洲的角度来说,决不
仅仅是中国的,或许是从法律上看是中国的,但是,现实中它是各民族的共同财产。”
(2)当他进入中国东北来到关东军司令部旅顺,亲眼目睹了中国人民高涨的抗日热情
时,进一步坚定了夺取中国东北地区的信心和紧迫感。认为,中国东北真正是日本发展
国策最为重要的战略据点,它对日本不仅具有政治上的价值,也还有经济上的价值,一
则占有之可以阻止苏联的进攻,把日苏矛盾的对接点大大地向前推移,从而使日本无虑
于北方;二则占有之才有可能获取一个更为有利的桥头堡,把对外扩张尤其是向中国发
展以至向更为广阔的南方扩张的宿愿付诸实施。因此,炸死“东北王”张作霖并不能对
中国构成明显的威胁,要最终解决“满蒙问题”必须依靠大规模的军事行动。正是因为
在侵占中国东北问题上的强硬态度,石原莞尔成为二、三十年代日本国家改造“先外后
内”思想派别的急先锋。(3)其次,把对“满洲”重要性的理解与渴望变成自己以由
“关东军之主动行动”实现“回天之伟业”为目标,“由谋略来制造机会”的专心致志
了。为此,他先是于 1929年5月参加法西斯军人组织“一夕会”,寻找有志于“满蒙”
问题的强硬派同道,与少壮军官永田铁山(Nagata Tetsuzan)、铃木贞一(Suzuki
Teiichi)、板垣征四郎等沆瀣一气,狼狈为奸,逐渐成为“满洲帮”的重要头目,(4
)并最终成为日本关东军的“鹰派”人物而被称为“关东军干犯统帅权的祸首”。(5
)然后在1931年5月前后亲自起草《满蒙问题之我见》的意见书递交日本政府,强调:
“作为反对俄国之东洋保护者,为使国防安定,应刻骨铭心,不忘满蒙问题的解决办法
,除将满蒙作为我之领土以外,当绝无他途。”同时规定期限到“1936年为解决目标”
。(6)对于日本政府和军部对意见书之策略可能引起多方面强烈反应的担忧,石原莞
尔不仅认为是多余的,还据理力争,声明:苏联的远东军力特别是运输力有限,美国没
有进攻日本的军事据点,海军布局又不合理且无显著的对日优势。
1931年9月18日,以石原莞尔为首,日本关东军精心策划的柳条沟事件爆发,以此为端
口,日军迅速占领吉林、锦州和哈尔滨,基本上控制了东北三省。紧接着,为巩固既得
利益,石原莞尔又加速建立傀儡政权伪满洲国,并在1932年初参与拟定了相关的备忘录
。主要内容是“一、满蒙问题的解决,不应只顾眼前的利益,必须考虑到世界形势的演
变和东亚的未来而加以妥善处理;二、为使苏联放弃进攻远东的企图,确立不败之国防
,必须从中国开始实现东亚各民族间的真正的大同团结;三、作为第一步,必须使满洲
国成为理想之乡。新建立的满洲国,既非中国之失地,也不是日本的领土,而是日中两
国共同的独立国家,同时也是各民族协和的理想之乡。”(7) 1932年3月1日,发表伪
满洲国的《建国宣言》,9日,在长春举行“建国”仪式。伪满洲国的建立,标志着石
原莞尔多年的梦想终于变成了现实。
二,集中精力经营“满洲”,以为日本飞跃的基石。
如何经营伪满洲国,石原莞尔设计了一套典型的帝国主义的计划。
首先,实现“五族协和”,推行经济“自由竞争”。1936年6月,石原莞尔发表《满洲
经略方针》,提出在“满”之日人、汉人、韩人、满人、蒙古人五个民族应和平相处,
共建统一新“满洲”为“王道乐土”。他指出,在“满洲”除实行简明之军政,确实维
持治安外,日方应尽量避免干涉,以期日、朝、中三个民族在自由竞争的气氛中获得发
展。其所谓的“自由竞争”,即“日本人致力于大规模之企业及使用智能之事业,朝鲜
人从事于水田之开拓,中国人从事于小商业劳动,分别发挥其能力,遂可得共存共荣之
实。”(8)日本的资本和头脑与中国、朝鲜的劳动力相结合,共同开发中国的资源,
这种设想反映的正是经过第一次世界大战日本资本主义进入帝国主义阶段的一般规律。
石原莞尔的“满洲”经济自由竞争论迎合了日本国内资本主义发展的基本要求,1936年
以后,日本三井、三菱、日产等大财阀纷纷涌入,并以日产为主体成立了“满洲重工业
公司”(简称“满业”),不仅加快了对中国的经济侵略,更为日本进一步发动侵华战
争提供了物力支持。另外,为推进建设“满洲计划”,石原莞尔还作为主要发起人,组
织成立了“满洲协和会”和“满洲青年联盟”。
其次,推行以农业为本位的产业政策。石原莞尔认为,根据“满洲”的实际情况,应在
此大力发展农业生产,使之成为日本的粮食资源及工业原料的供给地,同时坚持不要让
其工业威胁日本本土的工业的宗旨。对于中国自身的工业化与民族主义,石原莞尔不以
为然,“依吾人之直观,中国人果然能够建立近代国家吗?此点颇值得怀疑,我深信,
莫若在我国维持治安的情况下,以求汉民族之发展,则可为彼带来幸福。”(9)以牺
牲他国利益为代价谋取本国利益,石原莞尔的思想表现了一个十足的帝国主义侵略者的
强霸和蛮横。
1932年,苏联开始实施第二个五年计划,并增加其西伯利亚地区的军备;对外,1933年
苏联签署《关于侵略定义的条约》,严格限制对外行动,并与美国建立了外交关系,
1934年又加入国际联盟。苏联的这些举动使日苏之间的势力明显失去均衡。日本感受到
了新的更大的危机,法西斯势力加快了国家军国主义化的时间表。1936年二·二六事件
之后,日本建立起法西斯军人政治,穷兵黩武的狰狞面目彻底暴露出来,对中国的侵略
行动逐步升级。这时,回国担任日军参谋本部作战课长的石原莞尔却主张应集中力量经
营“满洲”,而不应该冒险急进。他认为:日本“历来最危险的敌人是俄国,为什么要
冒同中国打仗的风险?对重工业薄弱的日本来说,同时打两场战争等于是自杀。应该集
中全国力量,发展生产力,直到能与苏联的国力并驾齐驱。为了使日本在重工业方面能
自给自足日本应该避免与俄国和中国发生任何冲突,同时,实施一系列五年计划,开发
满洲的资源,到1952年日本工业发展到最高峰时,才能发动全面的对俄战争并且打胜。
只有这样才能拯救日本,而不能实施统制派所主张的向中国也许还要向东南亚扩张的政
策。”(10) 这种“变化”倒不是石原莞尔的侵略欲望有所收敛,而是他坚定地奉行
大陆政策的必然结果。站在军事领导机关的位置,根据自己的综合判断,石原莞尔认为
这种时候日本奉行不移的大陆政策发生了重大失误,并开始偏离原来的定位:随着苏联
远东兵力的增加与西伯利亚铁路运输能力的提高,日本在事发时迅速集结超过敌人兵力
的机会已经越来越小;地处日苏对峙前沿的关东军非但不专心于北方,反而把更多的精
力转移到中国华北地区,在把“日满经济共同体”扩大为“日满华经济共同体”的战略
指导下,于1935年开始了企图把华北地区的冀、鲁、晋、绥、察五省从中国分离出去的
“华北工作”,这种急切的扩张深入意图和行动又将使日本应付北方紧急情况的能力大
大降低。石原莞尔反对日军过早地进入华北地区,还有另外一个因素,即当时日本经营
伪满洲国迅速暴露出来的许多缺陷。主要是根据“满洲开发计划”在伪满洲国建立的重
工业和化学工业,不仅阻碍了日本本土同类工业的原料供应,加剧了日“满”相互之间
的竞争,还因此引起了日本国内的财阀势力的严重不满,影响到日本国内的稳定。这种
现象是关东军强硬的“满洲”策略的恶果,关东军既没有全力经营开发“满洲”,也无
意纠正现行“满洲”政策对原来既定方针的偏离。
石原莞尔从对苏战略的角度出发,认识到急于扩大中国事变,既不利于巩固日本在中国
东北的既得利益,又对日本本土构成威胁,日本的选择应当是果断停止对华北侵略的工
作,坚定地经营“满洲”从而使苏联断绝东进的念头,并使之转向印度、近东方面。石
原莞尔的这种主张并非其要对中国放下屠刀,而是一个深谋远虑;后来虽然也没有得到
日本政府和关东军的响应,但是,今天回溯这段历史,立足日本的国家战略,它确有一
定的客观性。 1937年七七事变后,石原担心全面侵华会使日本陷入战争泥潭而不能自
拔,主张缓占领中国,而非急战!! 1941年12月8日,东条内阁开始了太平洋战争。
石原莞尔的评论是:“如果说这场战争需要1万元的话,英美实际上有100万元,而日本
只有1千元,这种差异只能用战略来弥补,而不能用什么‘化不可能为可能’的口号来
弥补。在战略上除了寻找敌方的弱点之外,还必须认识到我方所拥有的条件,战法,战
士,特定兵器及其他战争手段的优点,只有依靠这些优点才能扩大敌人的弱点。军当局
在第一阶段作战计划完成的现在提出下一阶段的战争计划,这个战争计划必须包含必要
的生产增强数量和实行的手段方法及其可能性。”但是这时候已经不可能有人听得进石
原的话了。战争的进程一步步印证着石原的说法,
三,宣扬“东亚联盟论”,为日本侵略罪行伪装、辩护。
根据他的“世界最终决战论”,石原莞尔认为,通过欧洲大战而正在形成(日、美、英
、法、意)五个超级大国的世界,进一步归结为一个体系,其统制之中心,即为西洋之
代表美国与东洋之选手日本间的争霸战,对此,日本必须以迅速获得作为东洋选手之资
格为国策之根本点”,即“为了能够综合运用东亚诸民族的所有能力,要结成东亚联盟
”。(11)不难看出,所谓结成东亚联盟,不过是为了使日本在最终战争中赢得胜利,
首先确立日本在东亚的统治以增强侵略实力,最后实现“八紘一宇”的征服世界的野心
而已。“东亚联盟论”的实质是用怀柔手段引诱中国加入以日本为盟主的“日满华”三
国联盟,借此维持日本占领“满洲”和其他中国领土的现状,进而达到对中国的全面控
制。因此,石原莞尔的“东亚联盟论”是一个不折不扣的侵略理论。(12)
石原莞尔的东亚联盟论最早以伪满洲国《协和会声明》的形式,于1933年3月9日发表。
1939年10月,石原莞尔在日本东京成立了东亚联盟协会,出版机关刊物《东亚联盟》。
他鼓吹以“王道”为指导,首先承认日中两民族共同经营地——“满洲国”的独立,并
要求日、“满”、中三国坚持以下原则:“一,国防 防范白种人的侵略,保卫东亚天
地,为此也必须建立满洲国。二,政治 日满中分别根据本国的特征,政治独立,不干
涉内政。三,经济 以共存共荣为目的,谋求一体化。四,文化 日中两国民族互相尊重
对方的文化,创建以道义为中心的东洋新文化,并吸收西洋文明,实现人类最高的文明
。”(13)对于这个自以为是的理论,石原莞尔曾设想多年,并在实际行动中竭力谋求
推行“东亚联盟”政治组织的机会。处心积虑地策划九·一八事变,炮制伪满洲国,就
是为了尽快地完成这一政治理想。因此,1932年伪满洲国建立,石原莞尔欣喜若狂。但
是,随着日本战争政策的迅速升级,石原莞尔的“东亚联盟”设想后来受到东条英机的
压制,未起多大的实际作用。根本原因还在于日本军国主义已经彻底撕掉了各种伪装,
肆无忌惮地扩大对中国等东亚诸国的侵略,所谓亚洲国家之间的“协助”诸如此类的烟
幕和幌子再无什么意义,其欺骗性与虚伪性昭然若揭,亚洲各国也已经清楚明辨了。不
过,东亚联盟论积极地配合了日本的侵略行动,对中国的亲日派以及亚洲其他被侵略国
家的投降派起到了诱导和支持作用。石原莞尔对东亚联盟乐此不疲,在1941年被编入预
备役以后仍念念不忘,把“东亚联盟”运动改为民间组织,亲自担任顾问,只是已无可
奈何地成为日本侵略活动的政治点缀品了。
四,宣扬“持久战争论”,为日本难以为继的对外侵略输血打气。
石原莞尔认为,以美日决战为标志的世界最终战争关键在于以以武力彻底地压倒敌人,
但是,由于各种因素的制约,武力并不能一下子解决所有问题,长期的消耗战即持久战
将不可避免。对此,日本在目前情况下应专心从事的,乃是“以世界为对手,在东亚的
天地中进行持久战争,根据以战养战主义,由长年累月的战争而出色地实现工业的独立
,充实国力,以迎接继之而来的歼灭性战争”。(14)
石原莞尔的持久战理论,至少包含两层思想。首先,作为世界最终决战的一环,日本对
中国的战争不仅势在必行,但是,日本于战争状态下对中国的占领既不是一蹴而就的,
也不是一朝一夕的。对中国之“战”目的在于养对美之“战”。因此,以以战养战作为
根本的着眼点,日本所需战费的大部分都要由中国来负担;工业的独立,海军的配备等
,都应该是在“以战养战”中实现的课题。石原莞尔把对日本中国的侵略放进世界决战
的总体格局中,毫不掩饰侵略中国的意图和行动,誓必首先征服中国,同时,又对于对
中国的侵略充满了必胜的渴望。其次,作为一种战略,解决中国问题,首先要解决“满
蒙”问题。石原莞尔断定解决满蒙问题是日本的唯一活路,他为此甚至决定了为得到满
蒙政权而要采取的谋略。石原莞尔指出:当前的持久战争需要有各方面广泛而慎重的准
备和宏大计划,仅以武力难以解决,尤其需要把政治策略与战略密切结合起来;军人要
熟知政治之大纲,政治家亦需理解军人之大局。为此,他曾这样论述到:“当发生歼灭
战时,以武力为第一,外交财政等只具有第二位于之意义,但在消耗战中,随着武力的
绝对地位的下降,财政外交等则愈益提高其地位。……也就是说,当处于前者情况下时
,战略几乎总是超过政治策略,而当处于后者时,政治策略之地位即逐渐提高,终将出
现将帅以政治方针指导其作战的局面。……统帅权的历史即能说明上述情况。”(15)
石原莞尔的持久战思想始于30年代初,当时日本大规模的侵华行动尚未开始,因此,石
原莞尔以其对中国和世界情况的了解而得出的这一认识,是有一定的预见性的。他虽然
身处侵华最前线,但较之那些狂妄军国主义者,内心多了一些冷静和狡诈。也许,正是
因为如此,他比一般的侵华分子更加显得的老谋深算。石原莞尔的持久战思想既可以看
做是对日本侵略者的一次预测性宣传和思想警戒,也可看做是对之后日本侵略者陷入中
国人民坚决抵抗的泥潭中的惨况的注脚

【在 k*****r 的大作中提到】
: 纵观历史,昂格鲁-凯克集团是不会坐视欧亚大陆上强国和平崛起的,不管是第二,第
: 三帝国的德国,还是君主立宪的日本,还是邪恶独裁的苏联。
: 100年前的第一次世界大战,起源就是德国工业和技术的崛起,在战列舰建造竞赛中逐
: 渐把英国抛开了。 100年后的中米对抗形势,和100年前的德英对抗非常类似。 一边是
: 欣欣向荣的新兴国家,一边是靠对殖民地插管吸血,不劳而获的老朽帝国。 这种矛盾
: 是不可调和的。 米国在染上米犹这个癌症,绝症后,很难不保证丫不狗急跳墙,挺而
: 走险。
: 其实石原早就预见了这一天,世界最终战,东亚民族和昂格鲁-凯克集团的斗争,是决
: 定人类走向解放,还是走向千年黑暗的关键。
: 石原莞爾 <最終戦争論>

M*********n
发帖数: 4839
12
中美大战前都给日本先放几颗原子弹。要不然,中美两国打的两败具伤的时候,日本好
好收拾这两个国家。
小日本的算盘打的真好。
c*******n
发帖数: 2764
13
最终的对决其实是三种文明的对决即伊斯兰文明、华夏文明和西方文明,石原有两点失
算,一是想不到大日本帝国衰落这么快,而是想不到绿教蔓延这么快,当然对华夏文明
的韧性他也大大低估了。
西方文明在政治上不会再有创新,整个西方文明的精力会集中在反对欧洲绿化和遏制中
国崛起两方面,到底这三种文明谁能胜出,谁能在最终战后保存最多的实力,还是未知数

【在 k*****r 的大作中提到】
: 纵观历史,昂格鲁-凯克集团是不会坐视欧亚大陆上强国和平崛起的,不管是第二,第
: 三帝国的德国,还是君主立宪的日本,还是邪恶独裁的苏联。
: 100年前的第一次世界大战,起源就是德国工业和技术的崛起,在战列舰建造竞赛中逐
: 渐把英国抛开了。 100年后的中米对抗形势,和100年前的德英对抗非常类似。 一边是
: 欣欣向荣的新兴国家,一边是靠对殖民地插管吸血,不劳而获的老朽帝国。 这种矛盾
: 是不可调和的。 米国在染上米犹这个癌症,绝症后,很难不保证丫不狗急跳墙,挺而
: 走险。
: 其实石原早就预见了这一天,世界最终战,东亚民族和昂格鲁-凯克集团的斗争,是决
: 定人类走向解放,还是走向千年黑暗的关键。
: 石原莞爾 <最終戦争論>

A*****a
发帖数: 52743
14
最后会有变种文化产生

知数
,第
中逐
边是
矛盾
挺而
是决

【在 c*******n 的大作中提到】
: 最终的对决其实是三种文明的对决即伊斯兰文明、华夏文明和西方文明,石原有两点失
: 算,一是想不到大日本帝国衰落这么快,而是想不到绿教蔓延这么快,当然对华夏文明
: 的韧性他也大大低估了。
: 西方文明在政治上不会再有创新,整个西方文明的精力会集中在反对欧洲绿化和遏制中
: 国崛起两方面,到底这三种文明谁能胜出,谁能在最终战后保存最多的实力,还是未知数

1 (共1页)
进入Military版参与讨论
相关主题
石原莞尔评价1920年的中国【转载】石原莞尔和他的小JJ, 哈哈
推倒柏林墙:日本是如何走向灭亡的石原莞尔
日本战败的原因:忧国精英与爱国愤青国内历史学家越来越前卫:石原莞尔是非常同情中国的
愤青自干五主导的战争——解读日本二战时的军事行动石原莞尔上个世纪就观察中国
石原莞爾:《世界最終戰》石原慎太郎和石原莞尔有没有什么关系?
指出黄人和白人之间的终极战争战争是推动历史的真正动力
石原莞尔的《世界最终战争论》观点:当年上帝曾经给小日本一次绝佳机会 小日本不珍惜
其实石原莞尔的最初设想是只占东北,然后和中华民国修好。石原莞尔70年前就预见了东亚和米国的冲突
相关话题的讨论汇总
话题: 欧州话题: 東亜话题: 日本话题: 主義话题: 世界